2018年11月1日

ニュースレター第8号(2018年11月)

キビタキの会ニュースレター第8号(2018年11月)を発行しました。PDFをダウンロードしてご覧いただけます。

キビタキの会ニュースレター第8号(2018年11月):PDF

2018年7月4日

原発事故から7年 〜避難者の声3

2011年3・11の原発事故によって多くの住民がやむなく故郷を離れました。武蔵野市に避難してきた方に、これまでの体験や今思うことを書いていただきました。

福島の状況は事故前と同じでしょうか?

2018年3月11日で、東日本大震災・原発事故から7年になります。

武蔵野市へ来てからも同じ年数になり、子どもたちもだいぶ大きくなりました。見知らぬ土地へ来て不安だった子育ても、地域の皆さんのおかげですくすくと成長し、もう武蔵野の子どもになっています。同時に7年という月日は、東日本大震災、原発事故を知らない世代が増えてきたということでもあります。これを過去のことにせず、どう伝えていくか大きな課題にもなっています。

来年には、区域内避難者の住宅無償提供も打ち切りになります。残り1年ということで、先行き不安な方々が沢山おられます。まず、福島の状況が事故前に戻っているのかという一番基本的なことが蔑ろにされてはいないでしょうか。今一度考えなければいけない時期に来ているように思います。

いつも寄り添ってくださる方々には本当に感謝しています。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

(福島市から避難)

2018年7月2日

原発事故から7年 〜避難者の声2

2011年3・11の原発事故によって多くの住民がやむなく故郷を離れました。武蔵野市に避難してきた方に、これまでの体験や今思うことを書いていただきました。

あの事故は何万人もの未来を奪った!

地震・津波・原発事故の三重苦から7年目を迎える。自然災害はどうしようもないが、原発事故さえ無かったらと今でも思う。

2月末、業務上過失致死罪で強制起訴された旧東電経営陣の4回目の公判の新聞記事を読んだ。震災前に津波被害の検討を依頼した子会社の社員に、「15.7メートルの津波高は小さくならないか」とか、再依頼時には「これ以上検討の必要はない」と言ったとか。この証言で東電の傲慢さが明白になった。故郷を失った私たちは激怒するのみ。これからも色々なことを(原発廃炉を含む)望んでいる。

すでに住民票を当地に移した私たちに、故郷から色々な情報が届く。故郷では、震災後、経済的格差や人口減少から様々な問題が起きているようだ。自分たちの財産はいまや故郷には存在していないが、セピア色に近づいている思い出だけは残っている。今は、私たちが当地での生活・仕事さらに新たに築いたコミュニティーが最も大切なものになっている。

震災当時の思いは、徐々に風化していくが、あの未曽有の事故を起こした本人たちは、人は自分の都合のみでは生きていけないことを自覚し、何万人もの未来を奪ったことを重く受け止めてほしい。

(南相馬市から避難)

2018年3月13日

原発事故から7年 〜避難者の声1

2011年3・11の原発事故によって多くの住民がやむなく故郷を離れました。武蔵野市に避難してきた方に、これまでの体験や今思うことを書いていただきました。

子供の成長をかみしめられなかった避難の日々

2011年3月14日、取るものも取り敢えずタクシーで家を飛び出してから今年で7年。あの頃35歳だった私は、気が付けばもう42歳。息子は4歳から11歳に成長した。雀の涙ほどの賠償金しか得られない自主避難者とあって、福島と東京との二重生活となる母子避難を維持するためには、とにかくお金がかかる。最初の2年は、自宅にかけた地震保険から支払われた保険金でなんとか食い繋いだ。それも底をついた頃、私は6年のブランクを越えて働きに出なければならならなくなった。

まだ震災のショックで精神的に不安定な息子を、公立幼稚園とあちこちの知人、ボランティアさん、民間の一時保育、時には福島の母に来てもらい、日々やりくりしながら必死で働いた。強制避難ではないということで、受けられる行政サービスが制限されていたためだ。せっかくのいい時期に、子供の成長をかみしめる余裕なんて全くなかったし、ただ一日一日を生きていくことで精一杯といった毎日だった。

3年前、息子が小学2年生の頃には、いわゆる震災離婚に至った。その後は更に大変になり、身体もメンタルも壊してしまい、本末転倒と思いながらも、もういっそ人生を投げ出したくなった。そんな最中、自主避難者への住宅支援が打ち切りとなり、更に絶望。いざという時、今まで信じてきた政府は、弱者をいとも簡単に切り捨てると知った。

だけど今、私と息子は沢山の方達に出会い、支えられ、いまここに生きている。幸せと感じられる時も増えた。私達と繋がって下さった方々に、本当に本当に心から感謝している。

原発事故には、大切にしたかった、私と息子のそれまで思い描いていたたった一度の人生の夢を破壊され、台無しにされた。もうこれ以上、私たちのような悲惨な家族を増やしては欲しくない。今はそれを切に願っている。

(郡山市から避難)

ニュースレター第7号(2018年3月)

キビタキの会ニュースレター第7号(2018年3月)を発行しました。PDFをダウンロードしてご覧いただけます。

キビタキの会ニュースレター第7号(2018年3月):PDF

2018年3月12日

今後の取り組みについて

キビタキの会は、2014年2月に活動を始めました。武蔵野市の緑町の都営住宅に避難している住民が、東京都からの住宅に関するアンケートに不安を持って集まり相談したことがきっかけでした。その後、安心できる住まいを求めて政府関係機関・福島県・東京都と交渉を重ねてきました。

2017年3月末の自主避難者への住宅支援打ち切りに際しては、「避難先に住み続ける」ことを求め、署名を集め福島県に提出し、継続して東京都などに独自の支援の実施を訴えてきました。代表の報告にありますが、キビタキの会とご縁のあった方々は、東京都の都営住宅の入居要件に合致し都営住宅に住まいを確保することができました。(なお、2018年3月2日現在、武蔵野市内には49世帯99人の避難者がお住まいです。)

しかし、自主避難者全体で見れば、生活困窮に陥った深刻な例が後を絶ちません。住宅支援打ち切りは、シングルマザーや非正規雇用の労働者などの貧困を加速しています。昨年9月には、山形に自主避難した8世帯の住民が国の外郭団体から立ち退きを求められ訴えられる事態もおきています。

一方、福島の状況は、原発事故の収束ができてといえないのに、政府は、避難指示を次々に解除し帰還政策を進めています。しかし、帰還する住民は多いとは言えません。

キビタキの会は、避難先であれ福島であれ、原発事故によって避難した住民の住まいと生活の安定のために、息の長い支援を地域で進めていきたいと考えています。

この4年間のさまざまなご支援に心から感謝申し上げるとともに、引き続きお力をお貸しくださいますようお願いいたします。

今後の取り組み

  • 武蔵野市内在住の避難者を中心に、これまでご縁のあった方の実情に応じて、住まいの確保・安定のために必要なサポートを行う。
  • 避難者の実情と政府・自治体への要望を地域の中で広報する。
  • 広域的な避難者支援については、避難の協同センター・ひだんれんなどと協力して進める。
  • 避難者支援のための法的整備(既存の法律の運用改善あるいは修正提案など)をめざし、広域的団体と協力して、政府や各政党・国会議員等への働きかけを行う。

(事務局 山本)

2018年3月11日

原発事故から7年 これからもご支援お願いいたします

2011年3月11日、東日本大震災と大津波によって起きた東京電力福島第一原子力発電所の事故。安全神話にだまされ続けた福島県民。突然の発電所の爆発に右往左往し、逃げ出した人々の苦悩は今に続いています。7年を過ぎた今なお、事故は収束の見通しもつかないままです。この事故に大きな責任のある政府・東京電力は、見せかけの除染によって、町や村に避難の解除を出し、被災地の人々の放射能への不安は押しつぶされたように思います。

不幸中の幸いとでも申しましょうか、環境も良い、市民の人たちも良い、この武蔵野市に住めたことは、私の最大の幸運だったと心から思っています。緑町の避難者とともに「キビタキの会」をつくり、大きな声で、政府・福島県・東京都などに、抗議・要望と運動を続けてこられたのも、市議会議員の方も含め多くの市民の皆さまの支援があったからこそと、常々感謝をしています。

全国各地の避難者の方と協力した運動の成果として、自主避難者の住宅支援打ち切りに対し、幼いお子さんのいる世帯、病気がちな方は、同じ緑町都営住宅に住むことができ、ご縁のあった他の方々もそれぞれ都営住宅に入居が決まったことが、あげられます。支援者の方々の大きなお支えがあったからこそと、ひとまず安心を感じました。

しかし、避難者全体を見れば、さまざまな苦悩はこの先々まで続く問題です。これまでご支援いただいた皆さまにあつくお礼を申し上げるとともに、今後とも変わらぬご支援をお寄せくださいますようお願いいたします。

キビタキの会 代表 小島ヤス子(葛尾村から武蔵野市に避難)